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■鹿教組結成60周年記念事業「沖縄平和学習の旅」の感想 -その2-

「沖縄平和学習の旅」に参加して
鹿児島支部桜丘東小学校分会 白川 成尾
 生まれて初めて、沖縄戦の惨劇を体験することができました。機会をいただきありがとうございました。今後も多くの仲間が参加され、平和運動につなげられたらと思います。現地で感じたことを、簡単にまとめました。
 まず、1日目、旧海軍司令部壕で、1945年4月から6月13日の玉砕の日まで、将兵たちが過ごした司令部壕は、艦砲射撃にも耐えうる強固な壕であった。しかし、南下する米兵の勢力に2000名の兵士が自決し、残りは南下して、持久戦で命を落としていったそうだ。この時点で、降伏をしていれば、沖縄の民間人だけでなく、日本軍兵士も、アメリカ軍兵士も、無駄に命を落とさなくてすんだのにと、悔やまれた。
 次に糸満市摩文仁の平和祈念公園では、韓国人慰霊碑を訪れ、朝鮮から連行された人々が、徴兵され、戦士、虐殺され、祖国に帰ることなく沖縄の地に葬られた歴史を聞き、戦争の悲惨さを感じた。沖縄平和祈念資料館では、沖縄戦の様子を写したアメリカ軍の生々しい写真により、当時の状況を知ることができ、兵士だけでなく、民間人、学生も軍の元で働かされ沖縄のすべての人々が、苦しみ、命を捨てて、国の犠牲になったことが分かった。「轟の壕」では、自然の洞窟に逃げ込んだ民間人だけでなく、軍と、官民が一緒に同じ壕の中で、つらい思いをさせられた。戦前、戦中の教育の力のすごさを感じた。

 2日目、宜野湾市嘉数高地では、沖縄本島中部西海岸に上陸したアメリカ軍が、南下し、那覇・首里を目指す砦として、日本軍が戦った場所であり、沖縄戦で最大の攻防戦が行われた場所である。「青丘之塔」「京都の塔」の慰霊碑が立ち、戦死した多くの軍人・民間人の慰霊をしている。残虐な地上戦が行われたことを想像すると、身震いがした。普天間基地の近くを抜け、沖縄国際大学キャンパスに墜落した米軍ヘリの墜落現場を見て、基地があるうちは、戦争が終わっていないと思った。
 次に、普天間基地に隣接して建てられた佐喜真美術館では、沖縄の芸術家の作品の展示のほかに、「沖縄戦の図」が展示され、一枚の大きな絵に沖縄戦の様子、人々の想いが表現され、心を打たれた。この図を元に子どもたちに、沖縄戦の悲惨さを伝えていこうと思った。
 対馬丸記念館では、沖縄から長崎へ向かう疎開者を乗せた船が、770名の児童と引率など合わせて、1800名が魚雷攻撃を受け、尊い若い命を失った。戦時の遭難者は、延べ4500人になる。沖縄戦では、兵士だけでなく、沖縄島民全員がいろいろな形で被害を受け、心苦しく思った。何のための戦いだったのかと。
 3日目、極東最大の空軍基地である嘉手納飛行場では、極東の米軍の中心基地として、戦後60年以上利用され、地主の権利を剥奪し続け、アメリカ兵の犯罪を許し、航空機騒音でも住民の生活に影響を与え続けてきた。戦時中の苦しみに終わらず、戦後60年たっても、苦しみを与えられている沖縄住民の気持ちを考えると、基地問題を、早く解決してほしいと思った。
 次に、住民の粘り強い基地返還の成果として、読谷村では、基地内に役場を建設し、水利権を取り戻し、「ゾウのオリ」と呼ばれた軍事通信傍受用のアンテナを、解体させることができた。基地返還された土地には、住宅や商店街が開発され、住民の喜びが感じられた。
一方、米軍の最初の上陸地であった読谷村では、悲劇が残されていた。「シムクガマ」と「チビチリガマ」に避難した住民は、生死を分けることになった。一方は、ハワイに住んだことのある日本人が2人いて、米軍兵士と交渉して助けられ、他方は、集団自決で80名が亡くなった。米軍も、武器を持たず抵抗しない、民間人を殺そうとはしなかったのだ。
 戦前・戦中の教育に、原因があると考える。戦後の教育を反省しつつ、戦争をしない、させない教育はどうあればよいのか、真剣に議論しながら、戦争のない社会を、世界を建設すべく努力していきたいと思った。






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