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■鹿教組結成60周年記念事業「沖縄平和学習の旅」の感想 -その1-

「沖縄平和学習の旅」に参加して
知覧中学校分会   藤元 綾乃
 「えっ!?ここは日本なの?」と夜,那覇市内から北谷に向かうバスの中で,思わず一人つぶやいていた。対向車線を挟んで,右の方には高さ180cmくらいのフェンスがずっと道沿いに張りめぐらされていた。その先には,たくさんの軍用車両と思われるジープやバスが所せましと置かれている。しばらくすると,鹿児島では見ることもない戦闘機が何機も並んでいる。(あ〜,ここは米軍基地なんだ。)
前日,平和学習のため沖縄入りし,その日の午後には普天間飛行場を遠目からだが目にしたはずなのに私の頭にはしごく当然のことしか思い浮かばなかった。沖縄の人々が身近に基地の存在を感じながら生活していることを私が実感した瞬間だった。
 昨年12月に基地の一部の返還があったと聞いた。それでも,沖縄の36%の地を米軍基地が占めているという。このことを私は知らなかった。自分に関係ないことには無関心ということなのか,と思ったら自分自身が怖くなった。
 旅の3日目には,シムクガマとチビチリガマを訪れた。そこで起こった対照的な出来事に驚き,その当時の公民化教育の恐ろしさを感じた。
 私たちは,未来を担う子ども達と語り合える距離に身を置いている。彼らの暮らす未来が平和であるのか,そうでないのか分からない。しかし,平和な社会を目指せるように子ども達の心に平和の種を植えることはできるのではないだろうか。いや,そうしないければならない。それが,私たちの責務だと感じた。
この旅を通して,私自身が肌で感じたことを少しずつ子ども達に伝えていこうと思う。「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンを胸に。


「沖縄平和学習の旅」に参加して
知覧中分会  西 瑞枝
 「ガマの中には、普通に人骨が転がっているんだよ。」
平和学習に旅立つ前、同僚にそう聞いていた。いくつかガマを訪れたが、そんなことはない。しかし、チビチリガマに来たとき、「ここだ」と思った。「集団自決」のあったこのチビチリガマは、今ではもう中に入ることはできない。家族の骨を踏まれることをよしとしなかった遺族の意志だという。私たちはこのガマの前で、知花さん 金城さんのお話を聞いた。今でも続く「自決」の悲劇、まちがった教育のおそろしさそんなものが重くのしかかってくる。
 話を聞いているうちに、自分の立場についてふり返ってみた。先生という仕事は、何もしなければ、ただ教科だけ教えていればいい。でも私たちはやろうとすれば、大きな影響力ももっている。「教え子を再び戦場へ送るな」ということを、果たして私は実行できているのか。この三日間、学習したことを折りにふれて子どもたちに伝えたい。また、政府の動向にも敏感でありたい。私たち教員が学習をもっともっとするべきだと強く感じた三日間となった。きっとこのツアーに参加した人も同じ思いをもったことだろう。最後にずっと説明してくださった上猶さんをはじめ、企画してくださった組合の先生方、本当にありがとうございました。

「沖縄平和学習の旅」に参加して
塚脇小学校分会 小野村伸一
 沖縄平和学習の旅に参加しました。教科書から集団自決の記述がなくなった記事を新聞で読んでとても強い憤りを感じていました。そのとき鹿教組結成60周年企画の沖縄平和学習の旅を知り、ぜひとも自分の目で直接見てみたいと思いました。沖縄に行ったこともなく、沖縄に関する知識もほとんどありませんでした。
 鹿児島空港で結団式があり飛行機に搭乗しました。一時間あまりの飛行の後、那覇空港に無事着陸しました。まず出迎えたのは先日炎上した中華航空機の無残な姿でした。空港を出て思ったのは外国みたいだなということでした。バスの車窓から眺める景色は、ほとんどがコンクリートの建物でした。昔からの赤い瓦の建物はほとんど残っていませんでした。台風の通り道の沖縄だけど、これなら大丈夫だろうなと思いました。
 一日目は旧海軍司令部壕、摩文仁平和記念公園、轟壕に行きました。いきなり戦争の生々しい現実が目の前に迫ってきました。二日目は宜野湾市の普天間基地、沖縄国際大学ヘリ墜落現場,佐喜真美術館、対馬丸記念館、首里城、などを見て回りました。沖縄の歴史などを知ることができました。三日目は嘉手納道の駅から嘉手納基地で離着陸訓練をする米軍の戦闘機などを見学しました。轟音を立てて飛び立つ姿に沖縄の現実を知りました.その後座喜味城跡、楚辺通信所跡、シムクガマ、チビチリガマを見学して空港へと向かいました。知花さん、金城さんから話を聞かせてもらいました。
 夜は島歌を聴くことができました。もらったしおりで沖縄には、5つの顔があると言われていることも知りました。上猶さんの解説でとてもよく沖縄のことが分かりました。団長さん始め皆さんにはとてもお世話になりました。無事鹿児島に帰ってこれてほっとしました。とても多くのことを学んだ沖縄の旅でした。沖縄で学んだ事を生かして平和の大切さを訴えて行きたいと思います。どうもありがとう御座いました。

「沖縄平和学習の旅」に参加して ~「知る」こと 「聞く」こと~
伊集院中学校分会 重留 真理子
 たまたま支部に用事で行ったら,「行かない?」と声を掛けられ,その場ですぐに「行きます」と答えました。沖縄は3度目ですが,10年おきぐらいに,中学校に上がる前,大会引率と行っていました。
 ですが,いちばん印象に残っていたのは中学校に上がる前に見たオキナワでした。というのも,黒塗りの車が数台,右翼の街宣車が駐車しており,子ども心に恐怖を覚えた「ひめゆりの塔」。嘉手納基地でフェンス越しに戦闘機のコクピットに座っていた米兵に手を振ったら振り替えされたこと,たったのフェンス一枚で仕切られた基地への違和感と,不思議さと,なじめない恐さ。抜けるような青い空と,透き通った青い海,さわやかな風と温暖な気候,その違いが心に残っていました。
 今回は平和学習の旅ということで,今まで訪れたことのない戦跡を巡ることが出来ました。
 まず,ガマに入ったのが印象に残りました。轟壕は入り口もせまく,懐中電灯や手すりがなければとても降りることは出来ませんでした。ですが,ここを身重の女性や,子どもたち,お年寄りの方が降りていき,さらには生活していたと思うと,厳粛な気持ちになりました。読谷村では,明暗を分けた二つのガマ。1,000人が助かったシムクガマ。「知る」ことが,相手を信じることにもつながり,命を救うことになったのだと思うと,「知る」「聞く」はすべてにおいてキーワードになるのだと思いました。140人あまりのうち85人が亡くなった,家,殺されたチビチリガマ。親が自分の手で子どもを殺さなければならない状況,自分の命を捨てなければならない状況,想像もつきません。ですが,知花さんが言われたように,リーダーが見てきた状況が分けたのかも知れません。チビチリガマのリーダーは日本軍に中国人が殺され,犯され,嬲られるのを見ていて,自分たちが助かるなどとは露ほども思わなかったでしょう。集団自決のさいに「軍隊による強制はなかった」として,教科書からも削除されましたが,言葉による強制はなくても手榴弾が渡されていたり,毒薬があったりと,死を要求する雰囲気があったことは間違いありません。やむにやまれぬ状況に陥ったから自死せざるをえなかったのであり,自ら命を絶つことを望む人などいないと思います。シムクガマから生きて出た人たちは助かる可能性に掛けたのだと思います。さらに,旧海軍司令部壕は整備され沖縄の人たちの命はすでに捨てられていたのだと改めて感じました。
 今回は,今まで知らなかった朝鮮半島の人々の犠牲でした。以前も摩文仁の丘に行ったことはありましたが,韓国の人々の慰霊碑を初めて訪れました。嘉数高地でも同じように慰霊碑がありました。他にも,軍専用の慰安所があった話など,初めて聞くこともたくさんありました。自分が知ろうとしなかっただけで,「知る」ことから目をそらしていたのかもしれません。故国に帰りたくても帰れなかった人たちがどれほど無念の思いでいたのか,平和の礎に名さえも残さないで欲しいといった思いをきちんと受け止めているのか…。
 沖縄戦の悲しさは「対馬丸記念館」では,遺品がほとんど残っていないことだといわれました。63年前に海に沈んでしまい,遺族が亡くなり,遺品が散逸したり,戦場で失われてしまい遺品が残っていないのだそうです。緘口令が敷かれ死んだことさえも知らされなかった,語られなかった悲劇。
 少しずつ語られその思いが描かれた佐喜真美術館の「沖縄戦の図」。話を聞きながら絵を見ることが出来たので,思いを深めることが出来ました。また,美術館のフェンスの向こう側にある普天間基地。その日はたまたま静かで,鳥の鳴き声もきこえましたが,普段は轟音がすさまじいのだろうと想像しました。フェンス1枚向こう側に米軍基地があることでこんなにも生活を破壊しているのだとあらためて感じました。
 直接,知花さんや金城さんのお話を聞くことが出来たのは,とても意義がありました。学習の旅とはいえ,つい気持ちが重くなってしまいがちでしたが,しなやかに,したたかにがんばっていこうと,お話を聞くことでなんだか元気が出ました。
 摩文仁の丘に新しく出来ていた平和記念館で,ガマの中から聞こえた戦車の音は,現在校舎解体のために動く重機の音や振動とも重なります。この音・振動が脅えて暮らすガマの中でどれ程恐ろしかったことか。自分自身の目で,耳で,「知る」こと「聞く」ことなくして,平和を学ぶことは出来ないと思います。これからも,自分自身で「聞いて」「知る」ことの大切さを学んだオキナワの旅でした。
 最後に,オキナワの旅に行くと,「地上戦のあった島」「基地のある島」と,どうしても一面だけを見てしまいがちですが,それだけではない,豊かな沖縄にも訪れたいと思いながら,機材繰りで1時間近く遅れて那覇空港を出発するのでした。






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