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東日本大震災・現地ボランティア報告③
連合救援ボランティア第13次派遣活動に参加して
土橋中学校分会 臺場 伸一郎

7/2~7/9の日程で、岩手県気仙郡住田町五葉地区公民館(五葉小学校跡)をベースキャンプ゚に、大船渡市の社会福祉協議会災害ボランティアセンターがとりまとめる復興活動を、実働5日間行なってきました。

活動内容は、内装・附属設備の撤去及び清掃作業が主でした。7/4~7/7は、大船渡駅西側の3階建のマンション2棟、7/8は、大船渡市赤崎町の民家。通常であれば、専門業者が解体工事計画を作成して積算・見積りを行ない、費用負担も・・・、廃石膏ボード゙の適正処理も必要になるところでしょうが、被災現場を目の当たりにすると、そのような状況ではありません。作業上の安全対策は施されてはいるものの、一度は水没した建物、粉塵や乾いた汚泥いろいろなものが舞っている中での作業は、黙々と進められました。

7/5昼頃、近所のおばあさんが、「以前ボランティアに自宅の清掃作業をしてもらったが、道路から玄関までのあいだに物品があり、出入りに困っている。なんとかしてほしい。」とのこと。2・3人行って片付ければ、直ぐに終わることだが、それをやってしまうと大船渡全体を請負ってしまうことにもなりかねない。そこは筋を通して、社会福祉協議会の連絡先をつたえ、社会福祉協議会へも「依頼があった旨をつたえておきます。」という話を、ボランティアグループ゚班長がしました。ボランティア活動の難しさを痛感しました。
また、作業3日目の反省会時、「ボランティア活動の趣旨は十分理解しているつもりだが、『同じ場所の、同じ作業』どうにかならないか。【補足:現場は復興前提のマンション、数件の物件を経営】ボランティアセンターの朝の作業分担のとき、今までと違った場所で作業ができるように配慮してほしい。」、そのような要望が出た。これもまた、「 ボランティア活動とは何ぞや。」と考えさせられる一場面でした。

連合の各単産の方々は、熱い気持ちをもって参加している方々ばかりで、異業種交流も盛んに行なわれ、新たな仲間との出会いの機会にも恵まれました。ありがたいことでした。

ベースキャンプ゚のスタッフとの会話の中で、興味深い話が聞けました。

・「義援金の配分問題がクローズアップ゚される中、ベースキャンプ゚では、支援金が足りない。義援金は、通常、日赤に集められ被災された方々へ分配。分配が遅い原因は、『公平・平等』に行なわなければならず、被災者の総数や被災状況の把握などが必要であるため。支援金は、震災において活動しているボランティア団体・NPOが必要だと考えている人たちに支給する。」、今回の私の参加経費についても、鹿児島⇔東京往復の旅費・宿泊費。東京⇔岩手の借上バス料金。現地滞在の諸経費(食事代、BC借上代、寝具レンタル・クリーニング゙、作業用消耗品費等など)。ざっと見積もっても、かなり掛かっています。直接ボランティアに参加し、汗を流す事ができるのは、それを支える数多くの皆さんの支援があるからです。心して活動しなければ、と思うことでした。また、誰でも僅かな協力で、大きな支援ができる組合の力を再認識することもできました。・・・BCP(事業継続計画)の話も興味深い話題でした。

・『津波てんでんこ』は、岩手(三陸地方)で親から子へと伝えられている教訓だそうです。「てんでんこ」とは、てんでばらばらの意味で、「津波がきたら、まずは自分。自分の身は自分で守れ、親も子もない。自分しかない。そして一家全滅、共倒れにならないように!」ということ。たいへん悲しく、厳しい教訓です。
 学校の避難訓練や危機管理のマニュアルは果たして、子どもたちにどれ程の実行力を付けさせているのだろう。今回の震災でも様々な場面で、 避難訓練や危機管理マニュアルが、活かされたり、そうではなかったり。悲しい現状も話されていました。この教訓が、学校現場でも生かされれば・・・と思うことでした。

ボランティアから帰ってきて、7/12の全校朝会と7/13の3年生の学級活動で、今回の活動と現地の様子を伝える機会を頂きました。内容は、「災害を含め、事が起きたとき、・自分の目で見て・自分で考えて・自分で判断して・自分で行動する」という話。「大船渡市内・陸前高田市内の様子を撮影した写真」の説明。「『津波てんでんこ』の言い伝え」の話など。
以下、ある生徒の感想です。

『日本がどうなっても、世界は地球は周りつづけて、変わりつづける。だから、写真の空を見て、青いのは、時間がたっていたからきれいになっているのかもしれないと思った。
人々が協力し合えば時間がかかるけど、きれいに新しくなることを知った。そして、写真でしかない(知ることができない)ので本当の苦しみはわからないけれど、自分たちの学校・家・町がこわれているのを見たらきっと、笑ってられないと思う。だから同じ日本で、私達と同じくらいの人がいることや、苦しんでいる人のことを、わすれてはいけないと思った。
わたしは鹿児島のこの町から、前みたいなキレイな川がながれて、人があふれる店が戻ることを願いたいです。
そして、わたしたちにできることから少しずつ遠いけれど、届いたらいいです。だからそのために、何ができるのか、よく考えて行動したいと思いました。』


この活動に参加するにあたり、御協力くださったすべての皆様に感謝申し上げます。有意義な経験をさせて頂き、本当にありがとうございました。

  




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