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東日本大震災・現地ボランティア報告②
東日本震災・ ボランティア活動に参加して
市来中学校分会 富 三津夫

3/11以降、すべての人々が「何かしたい!」という思いが募っていたと思います。その頃の私は学年末の事務作業に追われていました。こんなことしていていいのか!と毎日同僚と語りはするものの何も行動に移せない自分に歯がゆさを感じながら一ヶ月半,そこへボランティアに行かないか?と電話がありました。期間は5月1~5月10日,ゴールデンウィークです。なんて私はついているのだろうと思い快諾いたしました。

5月2日,10時に東京からバスで岩手へ向かい夕方に宿泊場所に着きました。結構バスは満席で,8時間位かかったのでしょうか疲れたのは事実ですが,宿泊先に着くと連合のスタッフの方々が温かく迎えてくれました。宿泊先は廃校になった土沢小学校と言います。廃校とは思えないほど,立派できれいな建物でした。震災後,連合がボランティアの受け入れ体制を整えるために地元の議員さんたちのお力添えをいただきながら手配したとのことです。個人で来るのと,組織で来るのは大きな違いがあると認識したのはこれだけではありません。食事も地元の業者さん何軒かに委託し三食をしっかりと摂ることができたのも組織あってのことだと思いました。

ボランティア(廃車手続きの準備)
仕事はその日の朝大船渡市のボランティアセンターを訪れて初めてどんな仕事か分かるのですが,初日は津波によって押し流された車の廃棄手続きをするために,車輌番号の確認を依頼されました。案内された場所には3000台を超える車の山がありました。多くの車が悲惨な状態になっており番号を特定するどころか、車だった形跡を殆ど残していない物もあり作業はスムーズにいかなかったように記憶しています。辺りや車の中には魚の死骸なぞが散乱し悪臭が漂っていました。作業自体も,ナンバーがあれば問題はないが,津波に巻き込まれた車は,洗濯機に入った衣類のようにクシャクシャになるっている車もかなりあるのです。中には2台か3台の車がスクラップ状態になり,原型をとどめていない車もありました。そのような車でも型番を探したり,何か落ちている書類の土を落としながら持ち主を特定しようと試みたら,免許所や写真等がでてきたり領収証がでてきたりしました。きっとなんらかの手がかりに繋がるものとして届けたりしました。
3人のグループで仕事にかかり150台をこなすことが精一杯でしたが,一番辛かったことは,× 印がついている車を調べる時でした。その印は遺体が発見されたことを意味していたのです。作業の前には手を合わせてから始めましたが,こんなにも多くの方々が車の中で発見されたんだという感想をもちました。

ボランティア(支援物資の仕分け)
その日の朝,ボランティアセンターで振り分けられた仕事は支援物資の仕分け作業でした。日頃市中学校の体育館が大船渡市の支援物資の保管先になっており,そこに能代市の職員がボランティアで入り整理作業に汗をながしておりました。私たちはそこへ応援で入ったのです。
体育館は,2階のスペースも含め満杯です。第一印象は「こりゃ大変だ!」震災後,どしどし送られてくる支援物資。箱詰めで来るわけですが,どうやって分ければいいのでしょか?中身を確認し,根気強く分けるしかないのです。人手が必要なことは当然ということで我々が指名されたのでしょう。
まず私たち男性陣は少しでもスペースを空けようということで,舞台の山積みになった箱をさらに積み上げていき,スペースを確保するよう依頼されました。
みんなで連携プレーです。昼までには不安定で崩れそうな箱の山を舞台の天井まで積み上げ,スペースを確保しました。次はややこしいのですが,フロアに山積みにされた箱の種類分けです。黙ってもくもくと仕事をこなしていましたが,やはりどこか空しい気持ちに覆われていくのを感じていました。何故なら,私たちが一生懸命このような作業をしていても,被災者の元にはこの支援物資は届けられないのではないかという疑念を拭い去ることができなかったのです。多分,一緒に活動している方々もそう思っているに違いない,でも誰かがとりあえずこの仕分けもしておかないといけないということで頑張ったと思います。2日間この仕事を任されました。上記したような葛藤もありましたが,非常に能代市の職員が喜んでくれました。ものすごく整理整頓(仕分け)ができたと言って感謝してくれたのです。この2日間を通して実感したことを記しておきます。
※支援物資を送るなら・・・
①新品であること!
②ワンボックス!
③ワンサイズ!
※ この三つのルールを広く周知させたいですね。そうでないといっこうに支援者の善意は報われません。

ボランティア(Hさん,Sさん宅の床下の土砂撤去,屋内外掃除等)
やっと自分の描いていた作業がきました。疲れるだろうけどこれが一番やりたかったことです。スコップやデッキブラシをボランティアセンターで準備し車に乗り込みました。私を含め5人はある被災者のお宅を訪ね,作業を行いました。床下は,はぎ取られ土砂が積もっていました。それを掻きだし,水を流しデッキブラシで磨ききれいにする作業を行いました。作業は水をガンガン流しながらできたらいいのですが,そういうわけにはいかず,きちんと水をバケツに掬い取り外に捨てながらの作業です。その後は納屋の道具の仕分けをしながら,土砂を取り除く作業です。高台に位置する家ですが,一階は津波が入り込みひどい状態になっていたとのことです。あれから2ヶ月でもこの状況下にある被災者がきのどくでなりませんでした。
 Hさんはかなりの高齢で,足が弱っていました。津波のあった日はかろうじて2階に避難することができて助かったと言ってました。足が弱いのであの勾配のきつい階段をあがるのは苦労したと思います。
 Hさんの息子さんも生まれつき足にハンディーがあり非常に飲料水などにも困っていました。2日間にHさん宅を訪れて作業しましたが,2日目にはボランティアセンターに事情を説明し然るべき対応をお願いしたほどです。このことから,かなり多くの社会的弱者といわれる方々が声をあげることもできずにじっと耐え忍んでいるのではないかとおもいました。

 Sさん宅は,かなり立派で大きな家です。Hさん宅と同じように意外と高台に位置するお宅でした。ところが津波はその家の1階部分は全部覆ってしまう程の勢いだったということです。Sさん曰く,「ここまではこないだろう。」と思っていたらあっというまに家は浸かってしまって,やっと2階へ避難したとのことです。くっきりと津波の高さを示す模様が天井近くの壁に残っていました。その家の庭にはペットのケリーというゴールデンリトルリバー犬が繫がれていました。その日,津波によってそのペットも流されはしたものの,必死に泳ぎきって助かったということです。
 Sさん宅の作業もHさん宅同様,床下土砂撤去,そして庭に積もった土砂の撤去です。
非常に疲れましたが,それ以上に満たされるものを感じて作業をおえることができました。

 以上,記憶をたどりながらたどたどしい文になりますがご容赦ください。
まだまだマンパワーが足りないと思います。そのような中連合は常時300人体制でボランティア活動を進めていくということです。頼もしいのですが,地方自治体ももっと手をさしのべてもいいのではないでしょうか。私になんらかの権限があって,提言できるのなら,全国の健康な成人は一週間から十日間ほどは現地に赴いてもらいます。
まさに教科書で見た戦争の後の光景なのです。それぐらいのことをすべきと痛感しました。
 最後に,この機会をくださいました,わが鹿教組に感謝いたします。組合員で良かったと思います。自分のできたことはわずかだったにしろ,皆さんと連帯し行動できたことは私の生き方にも影響を与えたほどです。また近いうちに現地に飛んでいきたいと思います。

  




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