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森越康雄中央執行委員長挨拶
日教組第94回臨時大会 2006年3月21日
ここを読めば日教組が、今、何を考え、どこに向かおうとしているのかがわかる!

 2005年度も、後10日を残すばかりとなり、新年度へ向けての取り組みで多忙な中、お集まりいただきました代議員ならびに傍聴者のみなさん、そしてご多用にもかかわらずお出でいただきましたご来賓のみなさま、ありがとうございます。かつてないほどの大雪にみまわれた冬も終わりをつげ、また花咲く春がやってまいります。雪国の人々には、これまで以上に待ちに待った春になることでしょう。

 毎年、同じように季節は廻り来るように思われますが、この2005年度は、後の世で振り返ってみたとき、「極めて特異な季節」に映るのではないでしょうか。灼熱の夏、郵政民営化法案が参議院で否決されたからと、法案を可決した衆議院をはらいせ解散し、大勝利を収めた小泉総理大臣。新年早々、堀江社長(当時)等の逮捕を機に、一瞬にして「時代のヒーロー」を「犯罪者」に早変わりさせたライブドア事件。厳寒の冬、いわゆる「四点セット」で与党を土俵際に追い詰めていたはずが、雪どけのころ勝手に自分でこけて、相手に同情さえされてしまう野党第一党。まさに言語道断・茫然自失の有様でした。
 「無理が通って道理が引っ込む」世の中に、私たちは戸惑ってばかりもいられません。まさに日本という社会の基盤が、崩れ始めています。働く意欲・学ぶ意欲そして生きる意欲さえも、急速に萎えてきています。「成績を良くしたい」「勉強ができるようになりたい」と、以前はどの子も誰の保護者もほとんど例外なく答えたものでした。しかし、先日発表された日米中韓4ヵ国の高校生の意識調査(文科省所管の教育研究機関による)では、「現在大事にしていること」で「成績が良くなること」を挙げたのは、米中韓がいずれも75%前後なのに対して、日本は33.2%と最低で、希望の大学をめざす意欲も最下位でした。
 かつて「受験戦争」とまで言われた苛烈な時代でも、「その能力に応じて」教育を受けられるという公平感(憲法26条・教育基本法3条)と、「努力すれば報われる」という望みはそれなりにあったものです。しかし今日、家庭の経済格差がそのまま学力格差を生み、努力してもどうにもならないという諦めが、子どもたちや保護者には漂っています。ましてや、博打まがいの駆け引きや抜け駆けによるマネーゲームの勝者が、時の英雄として華々しくマスコミを賑わし、「地道に額に汗して働く」人たちが軽んじられる社会では、「正直」「真面目」「一所懸命」といったことばが死語になろうとしています。
 「流した汗が報われる政治を」という、有名なスロ−ガンがあります。国会で小泉首相は、経済の格差と二極化についての質問に、「格差はそれほどない。あってもいい」「勝者を妬み、足を引っ張る風潮は良くない」と答えました。年収200万円に達しない労働者が増え続け、生活保護世帯が急増し、就学援助率が東京都足立区では42.5%に達するという現実を、彼は見て見ぬふりをするというのでしょうか。富める者にはより優しく、貧しい人からさらに取り立てる政治に、何の痛痒も感じない為政者には、虐げられたものの痛みは伝わらないのでしょう。
 かつては、自分の仕事や会社を得々と自慢するおとなたちがたくさんいました。働くことにプライドを持ち、自分が周りからあてにされていることを誇りにしていました。生活の糧としての賃金を得るためだけでなく、働くことで家庭を支え社会に参加している自負がありました。しかし効率最優先の経営とそれを助長する政治とによって、「仕事(会社)が嫌ならいつでも辞めろ」「代わりはいくらでもいる」といった、労働者を人間扱いしない企業論理は、働く人たちのプライドを踏みにじり、働く意欲を萎えさせて来ました。そしてパート・派遣等の労働者へは、正社員と同じ仕事をさせながら不当に低い賃金に抑えることで、労働者全体へ低賃金を強いてきたのです。
 様々な家庭から学校に通ってくる子どもたちは、まさに社会の縮図です。保護者が職に就けない、食事も満足に取れていない、文房具も買えない、給食費等の引き去りのための銀行口座=貯金もない、そういった深刻な事情を抱える子どもたちが増え続けています。働くなかまとしての保護者との連帯を、私たちは模索しなければなりません。これまで、「所詮恵まれた労働者の組合だけの春闘」「公務員は楽して高賃金」「未組織の中小・零細企業は置き去り」「正社員はパート・派遣等の社員には見たふりもしない」等々、労働者同士の差別と分断を許してきたことが、労働組合の不団結と組織率の低下、闘争力の弱体化を招いてきたのは確かです。
 今次06春季生活闘争で連合は、不況の責任を労働者だけに強いてきた経営側に対し、ベースアップを基本に据えた賃金改善と、パート等の労働者の均等待遇・格差是正を前面に打ち出しました。そして労働基本権にこだわった交渉を展開することを、確認してきました。イオンやイトーヨーカドーなど、パート労働者の組合員化が進んでいます。トヨタなど、ベースアップを勝ち取る組合も出てきました。中小組合を中心としたパート共闘も、不退転の決意で臨んでいます。「不利益には黙っていない」「怒るときは怒る」といった労働者の闘う姿勢が、今ほど問われているときはありません。
 少し前までは、人の心をないがしろにし金儲けだけしか頭にない人は、「金に汚い」と軽蔑され、上目遣いに世間を見ていました。それが「人の心は金で買える」と何の恥じらいもなく公言し、「手段を選ばず金儲けに執着する人こそ勝ち組」といった風潮が蔓延し、「地獄の沙汰も金次第」「金の切れ目が縁の切れ目」「人情紙の如し」といったことわざそのものの社会になってしまいました。
 堀江ライブドア前社長は、昨年の総選挙を前に岡田前民主党代表との会談で、「強い者がより強くなる政策を」と主張し、岡田さんとは意見が一致しませんでした。まさに市場原理・競争社会・弱肉強食の政治を追い求める堀江さんの考えは、この間進められてきた小泉改革と一致するものです。「官から民へ」「規制緩和」「三位一体」「自己責任」等々、一見分かりやすいことばの裏で、「強い者はより強く。弱いものはどんどん弱く」といった格差社会・二極化が拡大してきたのは、強い者中心の政策によって、なるべくしてなったとしか言いようがありません。
 私たちは、教育基本法を変え、「愛国心」を入れることに反対してきました。思い起こしてください。「国旗・国歌」法制定の際、政府は「強制するものではない」と答弁しました。しかし、一旦法制化されるや否や、それを錦の御旗にして統制を断行するところがでてきました。「愛」が法制化されたらどうなるでしょう。指導要領に「国を愛する心」が書き込まれただけで、福岡県では通知表にその評価が導入されました。「愛」がABCでランク付けされるおかしさは笑い話だけならまだしも、現実のものになったとき、戦慄が走ります。
 私のふるさと岩手に、1200年前アテルイという蝦夷の指導者がいました。彼は歴史の教科書には長い間、「悪路王」と記述され大和朝廷に刃向かった謀反人として扱われていました。しかし郷土の歴史を見直す中で、平和に暮らしていた岩手の地を、支配下に治めるために侵略してきた中央権力に対し、異議を申し立て抵抗したのが「アテルイ」であることを知り、岩手では岩手県や県・高教職員組合など多くの団体が協力して、4年前アニメーション「アテルイ」を制作しました。私は2001年新しい歴史教科書をつくる会が編纂した歴史教科書に、「日本武尊は、九州(のクマソを倒して)から大和へ帰ると、さらに次は東の方(蝦夷)の乱れをしずめるために、天皇から命令を受けて出発した」という記述を見たとき、侵略者の立場に立った歴史観の怖さを感じました。
 例えば郷土を愛するといったとき、青森県で生まれ育ち岩手県で働き生活してきた私は、どちらの郷土を愛すればいいのでしょうか。今はどうかわかりませんが、私が小さいころの青森県は、津軽と南部がことあるごとに対立していました。私が生まれた南部である八戸では、「津軽には負けるな」「津軽は根性が悪い」としょっちゅう偏向教育を受けていました。そのため大学に行ってからもしばらくは津軽の連中に近づきませんでした。ところが付き合ってみると、案外いい人たちだったのです。しかし国のレベルになると、ことはより深刻です。在日・帰国子女・二世三世の人びとなど、愛さなければならない「国」を限定され義務化されることの理不尽さは、想像に難くありません。侵略の歴史には必ずといっていいほど、権力による国家・民族・宗教への服従が強制されます。
 「愛国心」教育に情熱を燃やしその先頭に立ってきた国会議員は、「弁護士名義貸し」で逮捕され、「国よりもお金と自分」を愛していたことがそのまま露呈しました。「教育基本法に愛国心がないことが犯罪の原因」だと強弁する政治家は、強者・身内への愛はあるけれども、弱い立場の国民・意見の異なる人たちへの愛は冷め切っています。日教組を敵視する人たちは、「教育勅語」を信奉しています。しかしその一節にある、「国民は、父母に孝行し、兄弟は親しみ合い、夫婦は仲むつまじく、友人は信じあい、つつしみ深く、高ぶらず、民衆に広く愛をおよぼし」(つくる会「新しい歴史教科書」要約より)をどう読むのでしょう。
 これらの人々が強調する日本の伝統・文化とは、決して猛々しいものではなく、他者への思いやりであり、意見の違いを認め合う寛容さと礼儀正しさではないのでしょうか。アメリカ直輸入の差別と憎悪・不信感を国民に増大させてきた競争原理に対し、彼らはいったどういう立場に立つのでしょう。
 「愛」ということばは、魅力的で優しく美しく響きます。それは自然で自発的で、誰にも支配されることなく、代償を求められないものです。しかしそれが一方的に義務化され断定的に強制力を伴ったとき、恐怖となります。「愛情のもつれ」からの個人間の愛憎劇、愛を説くはずの宗教同士が対立して引き起こされる惨劇、そして権力支配が進むときに濫用される愛と忠誠と服従。子どもたち・教職員そして国民に、強いもの・横暴な者への批判精神が育つことを恐れ、その心を縛りたい人たちには、「愛国心」の明文化は喉から手が出るほど欲しいのです。
 人と人とが善意でつながっていたころ、隣近所は暖かい陽だまりのようでした。子どもたちは家族だけでなく、親戚や可愛がってくれる多くのおとなたちに囲まれていました。そこには、安心できる家庭と安全な地域がありました。そのうちおとなたちは、お金を得るためのより激しい競争に巻き込まれ、仕事に追い立てられるようになりました。家庭や地域での人と人とのつながりはますます細くなり、おとなと子どものふれあいも少なくなるばかりです。国際比較では、日本ほど家庭の団欒が少ない国はありません。
 二年前、日教組の委員長に選出されたときのマスコミのインタビューで、日教組の役割は何かと問われ、私は「人と人をつなげること」と答えました。教職員・子どもたち・保護者、組合員と組合員、そして日教組と他団体・国民、つながらないことによる誤解・曲解が、より事態を悪化させます。初対面の人に日教組の名刺を出すと、私たちから距離が遠い人ほど後ずさりする印象を受けます。ところが子どもたちのことを語り学校への思いを述べるほどに、関係は一気に近づくことも実感しました。
 教育を語るとき、必ず次の問いかけから始めようではありませんか。「そのことで子どもたちが元気になりますか?」 「そのことで教職員が励まされますか?」 子どもたちは全国一斉に同じテストをし、比べられ競争させられることで、元気になるのではありません。分かりたいことが分かり、できるようになると、子どもたちは俄然元気が出ます。どこが出来て何で詰まっているのかを診断するのは、いつも子どもたちの身近にいる先生であり、その効果的な手立てと対策を日常的に練り上げられるのは、いつも一緒に働いている同僚の教職員です。「指導力不足教員」をことさらにとりあげ、「定期的に教員としての適正を審査し、教員免許を書き換える」と言えば、「すわ一大事」とばかりに張り切りだすでしょうか。子どもたち・教職員を、ますますおどおどさせる教育政策ばかりが、やたら目に付きます。
 子どもたちには学ぶ喜びと、巣立っていく社会に希望が見えることが大切なのです。子どもたちの笑顔と希望が、教職員を励まし明日のやる気を生み出します。山形県教組からいただいた文集「山形の子ども33」で、とてもいい作文を見つけました。山形市立第九小一年生のたけうちすずかさんは、「字が上手になったら他にも出来ることが増えた。先生から大きな花丸をもらったら、一学期できなかった逆上がりができるようになった」ことを紹介し、「字の練習をしたときみたいに、途中で嫌になっても止めないで続けたからかな。それとも、『できる、できる』と思ってがんばったのがよかったのかな。だから、毎日があかるいです」と綴っています。
 これ以上教職員を追い立て管理を強めるならば、覇気のない事なかれ主義で独創力に欠ける教職員を蔓延させることになるでしょう。子どもたちの元気と希望を育むのは、やはり元気と希望にあふれるおとなです。私たち教職員をはじめ労働者は、働くことの誇りと、暮らしの安心があれば元気になります。まさにdecent work(人間らしい働き方・誇りのもてる労働)を取り戻すことが、働く人々を勇気付け、子どもたちを元気にし、社会の未来を明るくするでしょう。
 私の子どもは小さいころ、おいしいものを食べたり嬉しいことがあったとき、「人生だね」と言って周りを笑わせたものです。この世に生を受け生きていくのだから、誰しも「いい人生」を送りたいのです。ところがますます激化する競争に追い込まれ、逃げ道も回り道も塞がれ、居場所までもどんどん奪われる社会で、おとなも子どもも希望すら失う事態が進行しています。だからといって政治は、小泉首相に代表されるように、それを是正しようとしないどころか、ますますアメリカモデルの格差社会を助長するばかりです。
 そのアメリカは、誰も頼んでもいないのに勝手に「世界の警察」を自任し、世界中に紛争・戦争を撒き散らしています。アメリカ独占資本の代表者で構成されているブッシュ政権は、「まず利益を独占すること」を最大目的として、環境破壊にも無頓着で、経済格差のいっそうの拡大による最貧国の惨状を一顧だにすることなく、世界を蹂躙し続けています。その最も従順な「パートナー」を自認する小泉首相は、どれだけ近隣諸国民を傷つけようが、なんら痛みを感ずることなく、自己中心路線をひた走っています。
 もう止めさせましょう、これ以上の弱い者いじめを。力のある者だけが世界を牛耳ることを。自らの欲望のために、果てしなく強奪と殺戮を繰り返してきた人類が、その残酷さを避けるべく見い出した知恵が、平和・人権・民主主義です。私たちの誇る日本国憲法は、長い歴史の末にたどり着いた全人類の希望なのです。「誰がつくった」「どこにつくらせられた」と、未だもって日本国憲法の生まれ育ちを問題にする人たちがいます。氏素性を云々いうレベルの論議で、危機的な状況にある地球環境の問題や、この国の将来の不安を語る資格があるのでしょうか。子どもたちの「今」を本気で真剣に見るならば、私たちの課題は明らかです。世界に誇る日本国憲法の精神を、国内外の政治に反映させ、生活に教育に活かすことこそ、明日を開く力になるでしょう。日教組はまさにその道をこれまで歩いてきたし、揺るぐことなくこれからも歩み続けます。


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