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平和への扉
第14回
「第18回永井隆平和賞・優秀賞作文」

未来(みらい)につなげる役割(やくわり)

県立市来農芸高等学校 二年 堀 香澄(ほりかすみ) 

 「生きていてごめんなさい。」元ひめゆり学徒隊の上原当美子さんは、死んでいった友人や家族に対する思いを絞り出すようにに語りました。本来、あって当たり前と思える命。それが当たり前でなかった時代が六十三年前に存在したのです。
 私は平和の尊さを学ぶために沖縄へ行きました。沖縄は日本で唯一の地上戦が展開された場所です。そして、その激しい戦いの中で傷ついた日本兵達を手当てしていたのが、戦場の看護師、ひめゆり学徒隊です。学徒隊は、沖縄の師範学校に通う十代から二十代の女学生により編成されました。教師になる夢を奪われ、看護の勉強をしたのです。彼女達が日本兵を手当した場所は、暗くて狭い壕の中でした。その南風原陸軍病院跡の壕の中はひんやりとしていて、壁はごつごつで水滴がついている。狭いうえに真っ暗で、とても看護のできる場所ではありません。こんな所で朝から晩まで忙しく看護が行われていたとは想像もできません。彼女達の仕事は、けがをして運ばれてきた日本兵達の手当でしたが、大勢運ばれてくれば、その分手当が遅れてしまいます。そのために不潔な傷口にはウジがわき、そこから身体が腐っていきます。それを阻止するため、手術が行われました。それは、傷のある腕や足を麻酔なしで切断するというものです。医師が切断するのを、患者の身体を押さえ、暴れないようにするのが彼女たちの仕事。切断にはのこぎりを使うのですが、「軍人は悲鳴をあげてはならない。」と言われていたため、兵士たちは歯を食いしばって耐えたそうです。そして、切断した手足や死体は、彼女たちが壕の外に捨てに行きました。兵士の下の世話など、一日中働きっぱなしで、睡眠時間は二・三時間。しかも、ゆっくり眠れるわけもなく、壕の片隅に小さく座って眠っていたそうです。
 このような状況の中、彼女たちは初めは壕の中の悪臭や他人の排出物、大量の出血、不潔な環境に慣れずに、抵抗したり泣いたり、気分が悪くなって吐くこともあったそうです。しかし、慣れというものは恐ろしいものです。だんだんと感覚がおかしくなり、それが当たり前のように思えてくるのです。私は、人間らしさを奪うことこそ戦争の恐ろしい所だと思いました。
 そんな大変な状況の中でも、彼女達は日本が戦争に勝つと信じていました。負けるなんて想像もしていませんでした。軍部は、国民に対して「日本は勝つ」と言い、少しでも良いことがあれば大きく報道し、悪い知らせがあれば内密にしていたのです。さらに日本軍は地上戦が始まると、こんなことを口にします。「捕虜にされるくらいなら自決せよ!米軍につかまれば女は強姦され、男は殺される!」と。中にはその言葉を信じ切って、自ら命を絶つ者もいました。しかし、女学生の中には、先生方の「生きろ!」の呼びかけに、生きると決めた者もいました。
 終戦後、あの激しい戦争の中で生き残った方々は、亡くなってしまった友人や家族に対して「生きていてごめんなさい。」という思いがこみ上げてきたといいます。生存者の多くは生きていて良かったという思い、そして生きていて苦しかったという思い、この相反する思いが半分ずつで、そのためになかなか戦争体験を話せないでいるのです。しかし、私はこう考えます。あのすさまじい戦争の中、生き残った方々だけが真実を知っているのです。だから、それを後生に伝えることが大切だと思うのです。上原さんは、つらい体験を苦しい思いを抱えながら、それでも私達に語ってくださいました。だからこそ、二度と戦争を起こしてはならないという気持ちを託された私達は、その思いを未来につなげなければならないのです。
 私は少しでも、未来につなげる力になりたいと思い、学校の文化祭で沖縄で学んだことを報告しました。さらに今、高校生1万人署名活動に参加しています。これは核兵器廃絶と平和な世界の実現をめざす、長崎の高校生が始めた活動です。街頭での活動を通して、若い人々の中には平和や戦争に無関心な人が多いと感じました。だから私は、そのような人々に向けて、少しでも関心を持ってもらえるように一生懸命呼びかけをしています。戦争というのは決して他人事ではないということ、戦争がもたらした影響を知ってほしいのです。「微力だけど無力じゃない」署名活動の合い言葉です。私達の小さな想いだって、たくさん集まれば大きな力となって平和が実現する。そう信じて活動を続けています。
 署名を通して平和を望む人がいることを知らせたい。この世の中に平和を願う人たちがたくさんいるのだから、決して戦争を起こしてはなりません。私はその力になりたいと思います。




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