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平和への扉
第13回
「風化させたくない戦争体験」

 十七歳当時、軍需工場が女学生の就職先だった。次々に就職を決めていく同級生、私も希望した。しかし、親の承認印をもらう段になっても、父はなかなか判を押してはくれなかった。私は、こっそり母の印鑑を持ち出し判をついて出してしまった。それを告げた時、母は声をあげて泣いたが、父は何も言わずにただ黙っていた。
 長崎の兵器工場に配属が決まり、七五三の参敗客でごった返す照国神社で壮行会が行われた。一番背の低かった私は、列の最後尾にいた。後ろに人の気配を感じ、そっと振り返ると父が来ていた。最後の最後まで連れ戻したかったのだろう。しかし、それも出来ず、どんな思いで見送ったことかと今でも思う。
 八月九日の朝、夜勤明け、上司と残業のことで口論となり、腹が立ったので、いつもはすぐに帰るところを仮眠部屋でふて寝をしていた。原爆が落ちたのはその時である。
 上司との口論がなければ寄宿舎に帰る市電の中で、一瞬にして閃光に焼かれていただろう。何が運命を分けるかわからない。
 終戦の直前に、宮崎経由で鹿児島駅に着いたら一免焼け野原だった。これでは家も焼け、家族も生きているかどうかと目の前が暗くなる思いだった。
 実家のある東市来駅に向かう汽車は満員だったが、「この子たちは長崎で新型爆弾を受けた子たちだ。何とか乗せてやってくれ」と駅員が窓から押し込んでくれた。
 東市来駅に着くと父がいた。あまりにも驚いて「ないごて来といやっと(どうして来ているの)」と叫ぶと、父は私の顔を見た途端、踵すを返し歩き出してしまった。その後ろを「お父さぁん、お父さぁん」と泣きじゃくりながら追っていったのを今でも鮮明に覚えている。おそらく父も泣いていたのだろう。
 父が、長崎に新型爆弾が落ちたと聞いたその日から、汽車が着くたびに駅に娘を探しに行っていたことを聞いたのは後のことである。

「私の世代は多かれ少なかれこのように戦争体験を持っています。語り継ぐ人が次第に少なくなり、風化してしまうことが心配です」
 (県職労H書記の祖母より)




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