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平和への扉
第5回
9月の平和教育

 9月は夏休み中に子どもたちが経験したことを話す時期です。また、教職員が自分の経験したことを話す時期でもあります(ここで夏休み中の研修がものをいうのです。学校に出勤ばかりして自主研修を積まなかった人は子どもたちに話す内容が貧弱になってしまいます)。そんな夏休み中の話の中から平和教育につなげられるものを見つけるのも大事なことでしょう。特に、この夏休み中に、イスラエルとレバノンの戦闘がありました。今も、この地球上で戦争が起きていること、北朝鮮のミサイル発射に過激に反応する日本の様子など一緒に考えることは数多くあります。
 歴史上、9月は8月ほどに大きな出来事はありませんが、それでも下記のとおり、子どもたちに語るべきことがあります。平和教育は一回にたくさんの時間費やさなくても、日々語っていくことで、平和の大切さを考えていけると思います。2学期も時機を捉えて平和について考えてください。

子どもに伝えたい9月の出来事
9月 1日 第2次世界大戦始まる(1939年)
関東大震災(1923年)
9月 2日 ミズリー号艦上で第2次世界大戦降伏調印式
9月16日 平頂山事件(1932年)
9月18日 満州事変(柳条湖事件・1931年)
9月23日 久保山愛吉さん死亡(1954年)
 ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で犠牲となった第五福竜丸の乗組員久保山愛吉さんの命日です。1954年3月1日の水爆実験では、焼津市の第五福竜丸の乗組員らが被爆し当時、無線長だった久保山愛吉さんが亡くなりました。
9月27日 日独伊三国軍事同盟締結(1940年)

[平頂山事件]
 1932年9月ごろ、中国東北部では、満州事変による関東軍(日本軍)の占領に対し、抗日運動が日に日に激しくなっていました。
 そんな中、9月15日深夜から翌16日未明にかけて、日本が占領していた撫順炭坑が抗日ゲリラに襲撃される事件が起きました。日本軍は、「抗日ゲリラが平頂山村を通過したことを炭坑に知らせなかった」とし、「住民がゲリラを手引きした」と決めつけ、見せしめのために、また炭坑を警備していた守備隊の中尉の面子の回復のために、平頂山村の住民を全員虐殺しました。
 9月16日午後、日本軍は平頂山村を包囲、村民を住居から追い出し、村はずれの崖の下に集合させました。そして、機関銃・小銃・ピストルで一斉射撃をしました。それが終わると折り重なる遺体を踏み歩きながら、まだ息の残る生存者や妊婦のお腹の中の胎児まで銃剣を突き刺し、皆殺しにしました。その後、遺体にガソリンをかけ焼き払い、証拠隠滅のためにダイナマイトで崖を爆破して遺体を土砂に埋めたのでした。

[柳条湖事件]   出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 満州事変までの経緯
 1905年、大日本帝国は日露戦争で勝利し、旅順、大連の租借権と長春〜旅順間の鉄道及び支線や付属設備の権利・財産を清国政府の承諾を以って大日本帝国政府に移転譲渡する日露講和条約が締結された。これをもって南満洲鉄道(満鉄)を創立し、その警備を関東軍が当たることになる。当初、地元の軍閥長である張作霖とも友好関係を築いていたが、張作霖の勢力が弱まり始めると、1928年に、関東軍は張作霖が乗る列車を爆破殺害した(張作霖爆殺事件)。張作霖爆殺事件によって日本は国際的な批判を招く事となる。張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本に対する敵対的な行動を取るようになり、南満洲鉄道のすぐ横に新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満州鉄道を経営危機に至らしめた。これに危機感を感じた関東軍は再三に渡り抗議するが聞き入れられず、石原莞爾(いしはら かんじ)、板垣征四郎の指導のもと、満洲事変を決意する。
 柳条湖事件は、満洲事変の発端となった事件である。1931年9月18日の夜22時過ぎ、奉天(現在の中国遼寧省瀋陽 (Shenyang))北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊される事件があった。駐留していた関東軍はこれを中国側の張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中国東北地方の占領行動に移った。
 この爆破事件のあと、南満洲鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしたが、関東軍兵士によって立ち入りを断られた。また、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過したことからも、この爆発がとても小規模だったことが伺える。
 柳条湖近くには中国軍の兵営「北大営」があり、関東軍は爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺、その後北大営を占拠。翌日までに奉天、長春、営口の各都市も占領した。
実際には、爆破は関東軍の虎石台(こせきだい)独立守備隊の一小隊が行ったものであり、つまり関東軍の自作自演であった。戦後、現代史家の秦郁彦(元日本大学法学部教授)が花谷中将など関係者のヒアリングを実施し、柳条湖事件の全容を明らかにしたものである。花谷中将の証言は秦が整理し、後に花谷正の名で月刊誌『知性別冊 秘められた昭和史』(河出書房)で発表し大反響が出た。後に、秦が事件に係わった他の軍人の聴取内容からも花谷証言の正確性は確認されている。(詳細は秦郁彦『昭和史の謎を追う』上(文春文庫)参考。)
 日本では長く「柳条溝事件」と称されていたが、これは当時伝えられる際の誤りだったと1980年代になって判った。現場の地名は「柳条湖」である。
 中国では「9・18事変」(九・一八事変)と呼ばれる。日中戦争に関しても、抗日運動の始まりという観点からこの柳条湖事件を発端とする主張が有力という。
 また、現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。



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