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「9.18不戦を誓う集会」の講演の要旨
「平和と平等」根幹から変質 総仕上げが憲法「改正」
 9月18日、「不戦を誓う集会」が互助組合会館で開催され、165名(鹿教組から37名)が参加した。
 ジャーナリストの斉藤貴男さんが、「安心のファシズムから改憲潮流へ」と題して講演した。斉藤さんは、改憲へむけ、米軍再編・教育改革などの動向を述べ、「憲法9条を機能させる闘い」を強化しようと提言した。以下は講演の要旨。
 *1931年(昭和6年)9月18日は、満州事変の発端となった柳条湖事件を旧帝国陸軍の関東軍が引き起こした日。その後「自衛」の名の下に戦線は拡大され、関東軍は中国の東北地方全域を制圧し、日本の傀儡国家である「満州国」が建国された。よって9月18日は、「不戦を誓う日」として県平和運動センター・県憲法を守る会の主催で集会を開催している。

戦時体制への道行き
 自衛隊の行軍は普通になりつつある。それは、防災訓練と称して、核・生物・化学兵器を想定しての地域社会・児童生徒を動員させての災害訓練が日常化しているからだ。自衛隊に対する抵抗感をなくそうというものだ。
 今回の米軍再編における日本の役割は、米の周りを回る“衛星プチ帝国”ともいえるものだ。実際は沖縄の基地負担軽減といいながら、実質的な強化であり、キャンプ座間には、米軍陸軍総司令部が移転して“ならずもの国家”を攻撃の対象として地球上の半分をカバーするために機能するという。
 財界は、グローバル化に伴って90年代以降、人件費が安い海外地域に工場を作った。そういうところには、政治的に不安な情勢(リスク)がつきまとう。だから何かあった時に「自衛隊に守ってほしい」と海外権益(企業権益)を守るという視点にたっている。だから、日本が金だけをだした湾岸戦争について不満があり、9条改正・集団的自衛権の行使を日本経団連が提言し始めたのである。

教育基本法「改正」の問題点を問う
 グローバリゼーションが進み、産業構造の変化は、国内に製造業(サービス業)しか残っていない状況をもたらした。結果として「国家戦略」として必要なのは「従順な子ども」だ。教育課程審議会会長の三浦朱門は、「非才・無才にはせめて実直な精神だけ養ってもらえばいい」と言った。「日本をリードしていくのは一部のエリートだけでいい」と明言した。ゆとり教育として3割削減を打ち出したが、今やその3割は復活して、「できる子」が学習する「発展学習」が登場した。教科書で一斉に習うもの、習わないものが公然と行われている。最終的に家庭でゆっくり親が勉強をみてやれるような子、学歴の高い親の子どもは充分な教育が可能だが、他は見捨てるということだ。このような問題が表面化していないのは、教職員の相当な努力によるものだ。
 教育でさえ平等な状況になく、まさに格差というよりも「不平等」といった方が正しい。
 教育基本法「改正」は差別的な教育改革が法制化されてしまうということだ。「愛国心」は人それぞれに違うもの。誰からも愛されない人がストーカーになる。それを通知表で評価するというからおかしな話だ。「法律で子どもや教員を縛り、教育内容を縛り、それを評価していく」という教育の自由を失うことになる。

監視社会
 戦前「落書き」は厳しく罰せられた。そして共産党員を取り締まった。今「戦争反対」のチラシを配っただけで罪になる。立川テント村事件などはその象徴だ。
 ファシズムと冷笑主義(シニシズム)は、表裏一体だと思っている。名前を明かさずせせら笑うような抗議やメールの存在は、まさしくそうだと思う。

小泉構造改革と格差社会
 「格差社会」というのは、「機会の不平等」である。小泉構造改革は、政策として格差を拡大させた。雇用改革というのは、同じ職場で働いている人の格差が生じたということ。正社員は、加重な労働による健康破壊や過労死・過労自殺を生み出し、労働者の35%を占めるパート・アルバイト・派遣・契約社員など非正規の労働者を生み出した。賃金の格差の問題だけでなく、女性へのセクハラの横行という状況を生み出している。
 95年に日経連が提言した「新時代の働き方」では、女性一般職は、「雇用柔軟型(雇いたい時に雇う)グループ」に仕分けられた。その女性たちは、派遣社員で賄われたが、セクハラの被害にあって派遣会社に訴えても泣き寝入りという深刻な実態にある。

総仕上げとしての憲法「改正」
 新潟県加茂市長の小池さんは、「9条2項がなければ、日本は朝鮮・ベトナムの戦争に行っていたはずだ」と言っている。アメリカでイラクに徴兵されているのは、志願兵だ。貧しい故に志願している。「貧しい人間だけが死ぬ、犠牲になるのならいいではないか」という発想である。
 憲法を「改正」するということは、憲法そのもののあり方が変えられるということである。近代立憲主義の原理原則である「国家権力の制限規範としての憲法」を転換するということだ。実際、民間憲法臨調の三浦朱門・中西輝政などは、「近代立憲主義をやめて、国民論の視点をもとう」と提言し、憲法には「国民の生き方を定めればいいのだ」と公言している。

戦後の加害責任をどうとらえるか?
 日本は、朝鮮戦争・ベトナム戦争によって特需景気を享受し、高度経済成長がもたらされた。戦争責任を考えた時に、「経済的な享受」をどうとらえるかだ。もしかして、憲法9条はこれまで機能したことはなかったのではないか。軍事大国になっていき、戦争をする国になっているこの時に、護憲の運動が「護る」「改悪反対」という棒線一本の運動だけでいいのか。「9条を本物にしよう。9条を勝ちとろう」という視点も必要なのではないかと思っている。

(教育かごしま 2006年9月20日・10月1日合併号より)
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