濱田健一さんは、43歳で故村山喜一議員(当時の社会党)の後継者として衆議院議員に初当選を果たし文教委員などを歴任した。96年の選挙では2回目の当選(九州比例区)を果たし、社民党政策審議会会長・労働担当常任幹事を務め、精力的に活動してきた。NHKの「日曜討論」には社民党の顔として登場した。
その後、2000年、2003年、2005年(民主党で出馬)の選挙では涙をのんだ。
学校現場・労働現場・人の傷みがわかる政治家として、改憲潮流の渦巻く今の日本の政治に、なくてはならない存在であったが、病気を理由に政界から引退することを決意した。本人がどんなに無念か想像にかたくない。
一教職員であった濱田さんの人生を思うとき、心からその功績に「お疲れさま」と言いたい。治療に専念し、また「はまだ節」を聞かせてほしい。
はまだ健一のあゆみ
1957(S32)年4月1日
1963(S38)年4月1日
1966(S41)年4月1日
1969(S44)年4月1日
1974(S49)年3月31日
1974(S49)年4月1日
1981(S56)年4月1日
1986(S61)年4月1日
1988(S63)年4月1日
1989(H元)年4月1日
1993(H5)年4月1日
1993(H5)年7月18日
1996(H8)年10月20日執行
2000(H12)年6月25日執行
2003(H15)年11月9日執行
2005(H17)9月11日執行
現在
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私立三育小学校入学
鹿児島市立甲東中学校入学
鹿児島県立鹿児島中央高校入学
鹿児島大学教育学部入学
鹿児島大学教育学部卒業
姶良郡溝辺町竹子小学校教諭
肝属郡佐多町郡小学校教諭
姶良郡栗野町栗野小学校教諭
鹿教組姶良伊佐地区支部書記長
鹿教組姶良伊佐地区支部支部長
姶良地区労センター議長
姶良郡栗野町栗野小学校退職
第40回衆議院選挙初当選
(故村山喜一の後継者として初出馬・初当選) 衆議院災害対策特別委員会理事、文教委員会委員等を歴任。
第41回衆議院選挙当選(九州比例区)
衆議院予算・文教委員等々歴任。
第42回衆議院選挙落選
第43回衆議院選挙落選
第44回衆議院選挙落選
民主党鹿児島県第4区総支部代表
はまだ健一政治経済研究会代表 |
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2/15記者会見
本日、大変お忙しい中、お集まりいただき誠に有難うございます。
本日、民主党鹿児島県連泉幹事長、連合鹿児島出口会長、鹿教組の佐土原委員長・児玉書記長から皆様にお話ししていただく内容は、私にとって、これまで温かく支え、ご指導いただいた皆様には、「ただただ、申し訳ない」としか言いようのない内容でございまして、心からお詫び申し上げます。
本年1月の人間ドックで食道に異変が見つかりました。その後の精密検査・生検及びPET−CTがん検診の結果、胃に近い箇所に「扁平上皮癌(食道癌)」と三箇所のリンパ節転移の疑いのある箇所があると、インフォームド・コンセントを受けました。ほとんど自覚症状のない中での告知は、他人事のようでもありましたが、事実は事実として厳粛に受容しなければならないと思いました。
立場が立場だけに、今後どのように対処すればよいのか、私及び家族なりに当然のごとく悩みましたが、「今はただ、完治に向けて最善を尽くす」ことが、支えていただいた皆様への別な意味でのご期待にそえることではないかと結論づけた次第です。
すでに、7日に上京し、8日に入院いたしました。忙しく駆けめぐった14年間でしたが、今は亡き村山喜一先生との出会い、大雨の出陣、初当選の喜び、本会議・予算委員会質疑、3度の落選等々、全てが「出会えた全ての方々に支え励まされた」日々で、私のような幸せ者はいないと思っております。
私自身、統一自治体選挙、参議院議員通常選挙と、戦後最大の政治決戦を目前にしながら、共に戦うことができないことは無念でたまりませんが、出身組合である鹿教組をはじめ、多くの方々との協議の上で、この会見をもって政界から退き、自らの完治に全力を注ぐことと致しました。14年間の長きにわたって、私を支えて下さいました鹿児島4区の有権者の方々や、鹿教組、連合鹿児島、県平和運動センターの組合員、後援会の方々のこれまでのご指導とご鞭撻には、言葉で表現できないくらいの感謝の念でいっぱいでございます。
人間の尊厳がこれほど踏みにじられる政治はかつてないと思います。政治の場で、人間の尊厳が復権できる社会を目指すことからは一歩も二歩も退くこととなりますが、必ず完治して、自分なりの人生を追究していきたいと思っています。
皆様方の今後のご健勝とご活躍を心から祈念致しまして、私のお詫びとお礼の言葉に代えさせていただきます。
2007年2月15日
はまだ健一 東京にて
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