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「教育基本法改悪反対、教育危機突破6・3県民集会の記念講演」 |
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西原博史さん(早稲田大学教授)の記念講演(概要) |
「教育基本法を変えることがもつ意味」〜良心の自由と子どもたち〜
教育基本法は軍国主義教育をのりこえるために必要だった
1947年に教育基本法が公布されたが、軍国主義教育を乗り越えるために必要だった。
戦前の教育勅語は、「よき臣民になるために何を学ぶべきか」を天皇が呼びかけるものだ。つまり、臣民は天皇の道具であったからその材料としてどう道具を使っていくかが教育だったのである。
しかし、その教育は間違いで、この先どうしていくかということになり、「天皇が決めるのではなく、国民自ら決めていこう」ということになって制定されたのが教育基本法である。
教育基本法の1条は、「教育は人格の完成を目指して行われなければならない」とある。人は、国家の道具から、「人格をもった人間」と捉えなおすことから始まった。だから、教育基本法はその柵のようなものである。
だれが何の目的で変えようとしているのか?
自民党の中から変えようという動きがでてくるのは珍しいことではない。繰り返されてきたことに「はねのけて」きた歴史がある。
文科省は、過去において守ってきた。しかし個別の利害がからんでかじを切ったと見ていい。「予算獲得のきちんとした枠組みがほしい」ということが一緒になって改正をすすめている理由だろう。
しかし、この改正を支えているのに財界がある。
戦後、日本の経済は「欧米社会に追いつけ追い越せ」の体制で労働力の底辺(工場労働の生産性)を高めるため、最大のエネルギーが使われた。しかし、1980年代には経済大国になってしまった。そこで今度は「創造性をもった天才が必要」ということになった。日本の教育は天才をつくってきたが、活かせなかったのは日本企業・財界である。
彼らにとっては経済的な意味で「エリートを作る」ことが必要で、集中的にエリートに金をかければいいという話をし始めている。一方、金をかけられない層には「愛国心」をということになる。これは、80年代中曽根さんが言ってきたことで、今は臨調路線の総仕上げの段階だ。
学校選択の自由化は何をもたらすか?
「個性の尊重」などが言われているが、このことは「学校ぎらい」も一つの個性、だから、あとになって困るのはあなたの責任ということになっている。
実際、東京都で行われている学校選択制もそうである。学校の統廃合をすすめていくのに、伸び悩んでいる子どもを切り捨てていくやり方が行われている。例えば「4年生大学の進学率を高める」という目標を達成するためには、進学できない能力の子どもをやめさせていけばいいからだ。このことは「一人ひとりが大切な存在ではない」を意味する。
品川区では統一テストの結果を見て親が学校を選択できる。区のホームページを見ることのできる親はどんな親なのかということになる。朝7時半に送り迎えができる家庭はどんな家庭かということだ。実は「選択できる」ということは「だれしも選択できない」ということである。
校長が学校の方針を決める。「選んだのはあなた自身」なのだからと不満があっても文句が言いにくい、働きかけができないという状況になっていく。最終的にエリート校に予算がつくということになる。
5日制が始まってゆとり教育といっても、1006個の漢字を覚えなければならない。学校でその授業時間が確保できないからおのずと「宿題」を出すということになる。しかし、子どもの宿題に関心を寄せられる家庭は多くない。
そもそも、親がめんどうを見きれないことから、均等に教育を保障するために義務教育がある。しかい今の制度は、教育に関心の高い人に恩恵を与えるものとなっている。
「能力主義」は教育を階級的に分断していくことだ。
しかし、すでにこのやり方は欧米で失敗している。ドイツでは、産業構造の変化とともに技術職が減らされ、就職できない状況にある。何度も工場研修などを断られると「不必要な人間」ということになっていく。そんなときにネオナチが「やさしい声」をかける。
日本でもそうであるが、少年犯罪を増やすための政策が進められているのである。
なんで「愛国心」?
不満をもった人たちには、何らかのタガが必要になる。国というまとまりの中で支えていかなければならないから。エリートのための愛国心も必要である。「束ねる」ことで社会をもたせることになる。
1999年の「国旗・国歌法」の制定から「自分できめる・自分で考える」ことがタブーになりつつある。東京都で行われている「君が代」問題も、子どもたちが歌わなければ、校長が処分されたりしている。
2002年に福岡市の学校で「愛国心」を評価の項目とした通知表が問題となった。そのことに意義を唱えたのは、在日コリアンだった。「我が国の歴史や伝統を大切にし〜」ということができないとみなされたのだった。「愛国心」を強制することは、不利益を与え、脅しをかけることにつながっていく。
日本は、「イラク戦争を支持する」と言ったが、国の方針に従うことが、日本人としての自覚を示すことになっていくのだ。
04年2月に宮崎の高校生が「イラク戦争反対の署名」を小泉首相に届けた。彼は「先生はちゃんと指導してほしい」とコメントしたが、「きちんと教えろ、政府がやっていることに批判するな」ということである。
改正法案の問題と運動の展望をどこに・・・
今回の改正案で、「人格の完成をめざし」という文言は残った。しかし、「社会の形成者として必要な資質」を備えた国民の教育が必要だとされている。「必要な資質」をどうみるかということは、第2条の「教育の目標」に示されている徳目をみれば一目瞭然だ。新教育基本法は、まさしく「愛国心を育てるための教育」だ。6条2項には、「教育の目標を達成するために体系的・組織的に行われなければならない」とあり、16条の2項では、「国は、〜教育に関する施策を総合的に策定し、実施〜」とある。「体系的・組織的」というのは、全て、教育の施策を国が決めて、一糸乱れぬ教育が行われなければならないということを示している。「邪魔するものは排除するということになる。
10条では「家庭教育」、13条には「学校・家庭および地域住民等の相互の連携協力」とある。これは、例えば「学校では日の丸をあげている。だから町内会で組織して地域でも協力しなさい」とういうことになる。今は学校が「踏み絵」になっているが、それが地域・家庭へ入りこんで自発的な協力を求められるということになる。昔から一つの社会が転落していく時には、学校から入っていった。過去の事実に、「ヒットラーが青年団を組織した時、優秀な子から誘いをかけた」。
私たちは、往々にして理解してもらえる人に話す。これは楽なことだ。PTAの中でこういう話をするには勇気がいる。しかし、この教基法の改正が何をねらって何がおころうとしているか理解してもらえるのではないか。地域や学校で何が変わろうとしているか語ることが大切だ。
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